藤吉 奈央子
藤吉 奈央子
Harmony ~Life&Work~(個人事業主)
株式会社トラストチャーム(会社設立)
略歴
1999年 | 大阪赤十字看護専門学校を卒業後、同病院で看護師として勤務 |
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2001年 | 滋賀医科大学医学部看護学科3年次編入 |
2003年 | 保健師の資格を取得 |
~12年間専属の保健師として活動(大手製造業で3年・金融業で立ち上げから9年) その間、“専属で保健師を雇用しない(できない)企業の産業衛生がどうなっているのか”が頭から離れない。 |
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2015年 | 家族の関係で1年間渡米。これをきっかけに退職 |
2016年 | 個人事業主として独立 |
2018年 | 滋賀医科大学医学部社会医学講座公衆衛生部門で博士課程修了 |
2022年 | 個人事業主の仕事から一部のサービスを切り離し法人化 |
現在のお仕事について教えて下さい(業務内容や日々のお仕事中の様子など)。
8年目を迎えた個人事業主として、複数の企業で保健師として活動しています。
企業規模は20人~約2000人、業種も製造業や、サービス業・不動産業など様々です。企業規模に応じて展開する産業保健サービスは異なりますが、これまで企業が培ってきた風土や、これから向かっていこうとする産業保健のゴールを大切にする伴走を心掛けています。
また大阪産業保健総合支援センターの相談員と両立支援促進員としても活動中です。両立支援促進員としては、がん拠点病院で相談窓口を設け患者さんの相談に向き合ったり病院スタッフや企業向けの研修講師、その他の情報発信を行っています。
2017年両立支援のブースを外来の廊下に出させてもらう
2018年ラジオ出演(「がんライフアドバイザーのがん晴れる道しるべ」)
個人事業主として活動の幅を広げると、世の中の産業保健サービスの展開がまだまだ限定的であることを実感します。もっと効率的に産業保健サービスを多くの人に届けるために、現場の保健師としての活動以外にもできることがあるのではないかと考えた結果、法人経営に至りました。
まだ2年目ですが、産業現場の経験のない保健師にOJTをしたり、看護職向けのコミュニティ運営を行っています。こちらは発展途上なので今後にご期待ください(と自分に発破をかけています)。
学生時代についての思い出(例:所属サークル)や当時考えていた将来の方向性について教えて下さい。
高校時代は女子バスケットボール部に所属しプレイングマネージャーをしていました。選手と交換ノートを用いて、各選手の得手不得手・できていることの可視化をするための対話を心がけていました。例えば精神的に緊張を強いられる場面で力を発揮できない選手には、どうしたら自信をもってプレイができるようになるかといったことをやり取りしていました。
今だと、“選手の自己肯定感を上げるサポート”と説明できそうですが、当時は将来の方向性が明確に決まっていたわけではありません。ただ、マネージャーの活動を通して人のお世話をすることにやり甲斐を感じ始めたのではないかと思います。
産業衛生の道を志した時期(年齢・年代)やきっかけについて教えて下さい。
外科病棟配属の希望は叶わず、精神科閉鎖病棟で看護師として働いた2年間が私のキャリアの原点です。
入退院を繰り返す患者さんに接したり社会的入院が課題になっていた中で、何か予防ができないのか?と疑問を持ち、保健師を目指すために大学に編入しました。
ただ、私が就職する頃は企業で働く保健師は今よりはるかにマイナーな存在。私としては精神科看護師として働いた2年間を組織内のメンタル不調者対応に活かせると思っていましたが、看護学部の先生方からは理解されず悔しい思いをしました。しかし幸運にも私は医学部社会医学教室でリサーチナースとしてアルバイトをしており、そこで知り合った先生から産業衛生について教えてもらえたことが産業衛生の道を志すきっかけになりました。
新人時代の思い出について教えて下さい。
今の私があるのは、最初に出会った産業医の先生と人事課長、大先輩の保健師さんのお陰です。最初の職場は3,000人の半導体の製造現場。保健師は私を含め2名。新人扱いは一切なく、保健指導・不調者対応・巡視・委員会での講話など現場でしっかり育ててもらいました。会社は“守る健康管理から攻める健康管理”への転換期。
若気の至りと言いますか、疑問点や提案を上申し活動を拡大しました。その1つが、社内で実施している健康診断に保健師ブースを設けて実施した社員さんの全員面談です。そこから相談や課内での出張講座の依頼・食堂メニューの塩分表示(当時はカロリー表示もない)など、自分の行動で仕事が拡大する楽しさを知りました。
人生における転機やキャリアプランに関わる大きな出来事がありましたら教えて下さい。
2018年に博士課程を修了したことです。結婚、出産、育児、仕事もありお恥ずかしい限りですが実は10年かかりました。途中辞めようと思ったこともあります。しかし、私が関心のあった産業衛生の場面では軽視されているように感じる脂質異常症と健康格差との関連を論文(Associations between Socioeconomic Status and the Prevalence and Treatment of Hypercholesterolemia in a General Japanese Population: NIPPON DATA2010)にまとめることができました。
“感覚を証明する努力”“何歳になっても学べば身になる”ということを体得できました。休日に“お母さんまた勉強するの?”“仕事と勉強ばかりしている”と保育園児の娘たちに言われた辛さは忘れられませんが、最後まで貫かせてもらえたことが大きな自信になりました。
2017年大学の教室で研究に関するミーティング
2018年博士課程修了
転機を越えた後の新たなキャリアにおける思い出を教えて下さい。
個人事業主として活動すると専属で保健師をしていた頃より関わる方の幅が広がり、博士課程で学んだ健康格差についても、現場で体感します。産業衛生を一部の人だけのものではなく、多くの人に提供したいと考えながら日々活動しています。その結果、法人を立ち上げました。“経営をしたかった”ということではなく、やりたいことを貫いた結果、今に至っています。そういう意味で転機を“越えた”というよりも現在進行形です。
本学会との関わりやメリットについて教えて下さい。
何と言っても職種・年代・性別を超えて多くの先生方と知り合えることが本学会の魅力だと思っています。
また一人職場が多い私のような看護職にとっては、自身の活動の方向性を確認できたり、法改正などに伴う最新の知見に触れさせてもらえることはとても有難いです。
これから産業衛生の道を志す方々に向けて、メッセージをお願いします。
私は“いかに働くか”は“いかに生きるか”だと思っています。多様性が求められる中で、いかにその人らしく働くか(生きるか)を支援する産業衛生そのものも柔軟性が求められると思います。私のキャリアも異色だと思いますが、私たち支援者がいろいろな挑戦をしながら生き方を模索することは、これまで以上に大きな意味があると思います。
皆様と支え合いながら、一緒に高め合っていきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。